3.11の記憶

3月11日が過ぎてはや一週間。
この日にブログを書きたかったのですがインフルエンザでダウンしていました。 徐々に忘れていく自分の記憶の整理も兼ねて、書き出してみようかと思います。

私と妻は宮城県出身ですので、津波のあった場所はどこも身近で懐かしい場所です。

私は現在37歳です。生まれた1978年に 宮城県沖地震という大きな地震があったそうです。この地震は30年周期でくると言われていて、あの頃はいつ宮城に大きい地震がやってきてもおかしくないと思っていました。

大震災があった5年前、私は松本市でまだ介護士としてデイサービスの入浴の仕事をしていました。仕事が忙しかったので揺れを感じませんでしたが、ホールからテレビのニュースとざわめきが聞こえてきて、事の大きさを知りました。
その宮城県沖地震という32年前の地震を知っているため、とうとう来るものが来たのかと思っていたのですが、それだけではなく津波というはるかに破壊力のある災害がやって来たことに愕然としました。

あの時は職場も地域社会も、日本全体が重い空気に包まれたのが肌で感じました。 次々報道される信じられないような映像を食い入るように見つめ、熱にうなされるような感覚で知っていたはずの場所を黙って眺めていました。
自粛しているCMのなかで唯一、公共広告機構の明るいCMばかりが流れていたのを思い出します。

夫婦のお互いの実家は内陸なのですが連絡も取れず、心配な時間ばかりが過ぎた2日後、奇跡的に妻の家と電話がつながりました。妻の母親が体調を崩したから松本に連れに来てくれないかという話でした。その後電話は繋がらず、二人で宮城に行こうと決心しました。

当時は少しずつガソリン不足や食料の買い占めが増えてきていましたが、一日かけて援助物資や燃料を買いそろえて車に満載して出発しました。 危ないけどポリタンクにガソリンを入れて、万が一道中でガソリンが買えなくても帰ってこれるように100Lは持っていきました。 詰め込んだ荷物の重みで車のタイヤがグッと沈み込んでいました。

東北道は全面通行止めだったため、新潟・山形経由で宮城に入る計画を立てました。 準備ができた夜に出発。 ガソリンスタンドやコンビニやパチンコ店など、いつもは賑やかな明かりをともしている場所も自粛ムードで薄暗い雰囲気でした。

冬の道でしたが幸い雪で通れない道はなく、無事に宮城に入ったのは夜中の3時ころでした。 仙台市内は一部電力が復旧していて、国道の信号機は止まったままなのに、パチンコ店の看板が煌々と明かりに照らされていたのが奇妙な感じでした。

妻の家族は仙台市のすぐ南の岩沼市に住んでいましたので、先に立ち寄りました。到着が早すぎたため、側の駐車場に車を止めて仮眠していました。何度も何度も不気味な余震があり、よく眠れなかったのを思い出します。

妻の家族の家は津波の被害もなく、地震による屋根瓦の被害ぐらいで済んでいました。 家族も全員無事でしたし、体調を崩した義母も持ち直していたので連れて行かずに済みました。

私の実家は県北で東松島、石巻などに近い方です。
実家に無事に行けるよう、内陸の道を選んで行きました。地震による道路の傷み方が激しかったことを思い出します。

実家の家族とは連絡が取れていなかったため、私がやって来たことにひどく驚いていました。 みんな無事で、私の兄弟たちも一緒に過ごしていました。
甥っ子は40km離れた仙台の専門学校に通っていましたが、電車が動かず帰ってこれなかったため、地震の日は見ず知らずの男性が家に泊めてくれたとのこと。その後歩いて帰ってきたそうで、2日間安否不明だったようでした。

実家の人たちは数日間電気が使えず、情報も車や手持ちのラジオでの情報しか知らないために、私が持っていった新聞の写真を見てとてもショックを受けていました。

それでも私の実家は農家なので、まきを使って大釜でお湯を沸かしてお風呂にしていたり、米を炊いたりとたくましく生活していました。

結局宮城にはお互いの家族の安全を確認できたので、2・3日の滞在で早々に帰ってきました。 自分にできることの少なさを強く感じてしまったし、持っていった食料を自分たちも食べてしまうのがもったいなく感じたからです。

帰りの道中で見た沿岸部での惨状は想像の通りです。地盤沈下していたり、道路に船がとまっていたり、木立に乗用車が斜めに引っかかっていたり、川の中に家が浮かんでいたり。

東北出身なのに大地震の直接の体験をしていないのが、何だか申し訳ないような気持ちにもなります。

その後5月にも、もう一度宮城に行きました。
今度はもっといろいろ目に焼き付けようと思って。

この時、東松島市の被災した友人の家に行ってみました。
周囲は田んぼや畑のある、のどかな場所の平屋のお家でした。家は残っていましたが、室内には1mほどわらやごみの堆積物が積みあがっていてめちゃめちゃでした。

賛否別れると思いますが無断で室内からアルバムを数冊拾ってきて、洗浄してひとまとめにして後日差し上げました。

できることと言ったらこのくらいしかできませんでした。

2011年に生きていた人たちは、皆それぞれにこの震災の日とその記憶を背負って生きています。
忘れてしまいそうなことや、忘れることのできない記憶もあると思います。

もっと出来ることがあったなあと思ってしまいます。
というか、今もまだまだ途中なんですよね。

たくさんの教訓や心に刻むことがありました。それを忘れるべきでない、というのが今の気持ちです。何もできませんが、少し、少しできることはこのくらいの事です。

コメント

  • 無題

    親族の皆さまがご無事でなによりでしたね。しかし、そうしたことを素直に喜べない、表現できない状況があったことが容易に想像され、つらいです。

    震災について軽率な発言はできませんが、私にとってのあっという間の5年間と、大変な思いをされている多くの方々にとってのこの5年間は全く異質のものなのだなとこのブログを拝読させていただいてあらためて感じました。そして無意識に「5年」という区切り方をしてはいけないのだと、区切ってはいけないのだなと思いました。

    いまだに仮設住宅で暮らしてみえる方もいるという報道があり、一方で空き家が問題になっているという報道もあります。こうしたものをうまくマッチングさせて、まず生活の基盤となる「住」について安心できる環境がなんとかつくれないものか、などと考えてしまいます。

    個人的には募金をした程度で、特段なんの役にもたてていない自分が恥ずかしいですが、家族や友人など、身近にいる人を大切にしつつ、今後はもっと多くの人と関わりの輪を広げていこうと思います。



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