収穫祭2020
松本は朝の気温が一ケタになってきました。いつもの年より早い秋の深まり方です。
うちの庭は柿の木が3本あり、今年は2年に一度の「生り年(なりどし)」。3本のうち2本が、たくさんの花が咲いているように実をつけました。もっとも花が咲くから実をつけるのですが。
あまりにも多いので友人夫婦に手伝いに来てもらい、4時間かけて収穫。今度は収穫した柿を分けるためにもう一人にも来てもらって、欲しい人に分けてもらいました。
2日後、我が家の分に残った柿をさらに4時間ほどかけて皮をむいて、紐に吊るして、熱湯消毒して、軒下へ無事に干し終わりました。
あまり多くて数えきれないのですが、大体干したのは180個くらい。そのほかに傷んで廃棄したのが30個くらい。合わせて210個ほど。これが全体量のおよそ5分の1くらいなので、たぶん2本の柿から1000個の柿がとれた計算です。そのほかにも高くて取り切れないもの、熟れすぎておちたものがさらに数百個あるので、この産出量はものすごい事です。
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昨日の良いお天気の中、ひたすら柿剥きをしながら考えていました。一体何でこんなことをしているのだろうと。
頭の中を巡った事。
まず本業の仕事があるのにそれを放っておいている。
干し柿にしてもこれはお菓子(?)であって穀類の収穫とも違う事。
作ったからと言って誰かにプレゼントできるようなものとは違う。
そもそもこんなに干し柿を食べたいわけではない。
干している間はホコリがついたりハエもとまったり、今の時代の衛生感覚とはズレている作り方。
失敗してカビが生えてしまったらすべて無駄。
…などなど。
正直ほかにやるべきことがあるのに時間をとられると、こんな思考のループになりますね。
でも悟ったのは、これは文化の伝承かもという事。
近所にもたくさんの柿の木が植えてあり、収穫されずに熟して落ちているのがたくさんあります。飽食の現代は甘いものはいくらでも買えますが、この木が植えられた50年ほど前はそれほど多くはなかったはずです。 各家庭で、木に登る人、受け取る人、皮をむく人、それぞれの役割があって、渋抜きしたり干し柿にしたりしては寒くなる冬の食料として食べていたはずです。
実際、自分の実家にも柿の木が植えてありました。幼い頃に家族みんなで柿とりをして、日中の日が当たる窓際で祖母が新聞の上で柿剥きをして、白く粉を吹いた干し柿をよく食べていました。
その柿の木も古くなり、取る人もいなくなり、枝が切り落とされました。
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いま自分が柿とり、干し柿づくりをする理由。
収穫しないと熟した実がどんどん落ちて異臭を放ち、車にもべとべとした汚れがついて困ってしまうから取らざるを得ない、という理由もあります。
でも幼い頃の懐かしい思い出を受け継ぎたい、土地の産物を無駄にしたくないという気持ちで2年に一度の干し柿づくりをしている気がします。
コロナでつまらない毎日の子供たちにとっては楽しい行事。まさに収穫祭です。
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しかし、この柿はほかに有効活用できないのかな、と考えてしまいます。渋柿は糖分も多く、熟すと発酵した酸えた匂いがします。
例えば発酵させてアルコールを作るとか。資源としては各地にそうとう眠っている生きた資源だと思います。ただで取ってほしい人も多いと思いますね。
もしくはバックトゥザフューチャーのミスターフュージョンのように、ポイポイと放り込むとエネルギーに代わるような夢の機械ができるとか。
落ち葉掃き、草刈り、雪かき…地味でも大事なことってたくさんありますね。地味だけど、確かに意味もあります。柿とりもたぶんそれだと思います。
過去の柿とりの記事
2018年はこちら。
2016年はこちら。