津波の跡地を見て

3月末に実家のある宮城に帰省しました。

この新型コロナウイルスで県外に移動するのが日に日にはばかられるような状況ですが、当時長野県での感染者が4名、宮城が2名ほどの状況でしたので、私たちも実家の人たちも感染を広めることはないと思って行ってきました。
なるべく人混みを避けて過ごしましたが、もし不快に思われる方がいらっしゃったらお詫びいたします。

子供は長い長い春休みとなり、久しぶりの非日常で長男はずっと楽しみにしていました。
今回の帰省は3月で震災の起きた月でもあり、この時期に巨大な津波が襲った事を思えるよう、沿岸部を子供たちに見せようと思いました。

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最初に行った場所は仙台市若林区の沿岸部にある「海岸公園 冒険広場」です。
たまたま子供たちを遊ばせられる屋外の場所、と思い調べたら見つかった場所です。

この公園は周囲の田畑からはからは小高い山の上にあるような公園です。

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子供が作れる秘密基地

すべり台など遊具もありますが、子供たちの想像力を生かして遊べるような工夫がたくさんあり、とても楽しい公園でした。

でも公園の周囲、よく見てみると歯抜けのようになった松の木は、かつては一面が松の防風林の生き残り。すべて津波で流されました。
いまはたくさん植林している松とそれを守る風除けが広がっています。

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畑のように見えるのはすべて植林中の松。以前は全面松林だった。

この周辺は津波の直撃を受けた場所。盛んに報道されていた場所の一つです。
公園の事務所やいたるところに震災時の様子が分かる写真や傷痕があります。公園の一番高台がかろうじて沈まなかったものの、すぐそこまで来た津波を示す表示や、流されたベンチや看板、運ばれてきた松の木がそのまま残されていたりします。

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松林を走るサイクリングロードだった道。今は使えるようになっています。

この公園は長らく使えず、やっと数年前に再開したようです。
ここで遊ぶ多くの子供たちは、2011年よりも後に生まれた人がほとんどです。この公園がどんな歴史をたどって来たのか、知ってもらうためにもいい取り組みだと思いました。

その数日後。

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大川小

初めて訪れる大川小学校。子供たちが80人近く亡くなった悲劇の場所です。残った校舎が震災遺構として残されています。

近くを流れる北上川はとても穏やかに流れる大きな河で、葦原(あしはらと呼ぶようです)がとても印象的です。この時期が収穫期なのか、刈り取り作業をしている人たちがたくさんいました。

それほど土地勘もない私が内陸の方から小学校まで車で走ってきましたが、まさかこんな場所まで津波が来るとは想像できません。

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正面円形の建物がホール。黒板などが残っていました。

小学校はとても素敵な作りだったのだろうとすぐわかるような、中庭を囲む半円形のコンクリート造りの建物が今も残っています。でも二階の天井部分まで水が押し寄せて、窓がほとんどないがらんどうの建物だけになっていました。

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二階部分と繋がる渡り廊下が崩れコンクリートの支柱が折れている。

建物の前にはすぐ裏山があります。山の斜面には、津波がやって来たことを示す表示がありました。ここに避難さえすれば多くの命が助かったのでしょう。本当に歩いて数分の距離です。何とも言えない感情が沸いてきます。

地震直後、どこに逃げるのか議論となり時間ばかりが過ぎ、山よりも近くの少し高くなっている場所への避難を選択してしまったために犠牲になったそうです。

震災が起きてから自分にも子供ができ、学校や保育園に通わせる身となって、いわば先生たちに子供の命を預けている立場になりました。
怪我や事故が起きないように先生たちも全力を尽くしてくれていると思いますが、こんな稀にみるような災害があったとき、そして自分の子たちがが犠牲になってしまったらどんな思いになるのでしょうか。
小さな子供であっても、大人であっても、自分の身は自分で守れるようにしていくことの必要性を感じました。

震災遺構は地元の人たちは嫌な記憶を呼び起こす取のでり壊したいという意見も多いようですが、私は信じがたいような出来事も、建物を見て初めて現実だったと思えました。大事な意味があるので残していてほしいです。

大川小からの帰りは雄勝町や女川を通る沿岸部を走りました。
雄勝には硯石になるスレートの産業があります。
10年以上前に訪れた時、スレートを屋根や外壁に使ったモダンな建物があり、素敵だなぁと見ていたことがありましたが、やはりもう、跡形もなくなっていました。
どこも高台には新しい住宅地が並び、海岸にはいたるところで防潮堤ができています。

その一方、女川駅前はとてもモダンな「ハマテラス」「シーパルピア」という駅前商店街(といえばいいのでしょうか?)が並び、水産品を食べられたり、お土産にできたりとすごく活気あふれる場所がありました。
ここだけ見ると郊外の洒落たスポットです。きっとこういう場所から町全体に元気が波及する気がします。

少し前に震災からの復興を話し合うラジオで、「復興」という言葉に違和感がある、と語る人もいました。
「復興」には「再びもとの盛んな状態にすること」という意味があるそうです。たしかに多くの人が亡くなったり、原発の近くでは住めなくなったりする地域もあり、文字通り元に戻るのは不可能です。

でも新しい人とのつながりと仕事がうまれ、少しずつコミュニティが出来てきて、それは「復興」とは違う、元に戻るのではなく新しいかたちの街でしょう。まだまだ辛いことも多いでしょうが、支え合って頑張ってほしいです。
震災による悲惨な出来事を忘れることなく、でも前を向いている人たちがいるという事をとても感じられた帰省でした。

このブログを書くために見てきたことをまとめていたら、いま現在新型ウイルスの影響にいる社会にも共通点があると思いました。
特効薬が見つかるまで完全な収束にはならないので、目に見えない敵のため疑心暗鬼になったり過剰に反応したり油断して迷惑をかけてしまったりと、病気のみならず心にも大きなストレスがあります。その一方で人と繋がっていた当たり前の日常がどれほど大切だったかを改めて感じています。

この世界的な災厄が終わった後、元には戻らない現実と向き合いながらも、大切な日常を守るような生き方が人々に芽生えていくのではないでしょうか。
他にもたくさん潜んでいる、目を背けているような人類の問題に向き合うチャンスかもしれません。

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