なんで?

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とうとう桜の季節がやってきました。もう里に雪は降らないでしょう。今年も長かった冬が終わった気がします。
でも信州は梅雨の時期まで油断はできません。昨年も扇風機とストーブが混在していた時期がありました。
松本は寒暖の差が激しいのが特徴です。

インフルエンザが治って、さあばりばり仕事しようと思っていたら肩こりでガチガチになり、おまけにまた!風邪をひいてグダグダとなっていました。いろんな人からなんで?と思われていましたが自分が一番呆れています。あ~あ…。

その風邪がなかなか抜けず、どうも頭痛が収まらないと思っていたら今度は副鼻腔炎が再発していたことに気付き、お医者さんに行って薬をもらいました。原因が分かってそれだけで気分的にすっきり。 でもなんでこんなに抵抗力が弱いんでしょうか。 持って生まれた体質なのでしょうか?

風邪つながりで思い出話。
小さい頃に風邪をひくと、こたつに肩まで入って茶の間で寝ていたことを思い出します。 田舎の農家なので、日中は祖母(ばあちゃんと呼んでいました)しかおらず、がらんとした部屋で二人でこたつにあたっていました。  

小さいころからずっと同じ家で暮らしていたばあちゃんも震災の前年の4月1日に亡くなりました。冗談みたいな日に。
もう私たちは松本に住んでいて、実家の母から「ばあちゃんが死んだかもしれないよ‼」という変わった言い回しで教えられました。 前日まで元気だったのにその日の朝、呼吸が乱れて救急車を呼んだあとの電話だったので、確かに「死んだかもしれない」状態だったようです。 103歳という、途方もない年月を生きてぽっくりだったから、幸せな死に方の部類だと思います。

私は前職が介護員でしたから、いろいろな方々の「老い」を目の当たりにしてきました。
仕事を始めた10年前から、もう要介護状態で寝たきりの方で、今も頑張っている人を知っています。食事がチューブになっても、体がどんなに拘縮しても一部がなくなっても、命の力がそこにある限り頑張って生きておられます。

元気なお年寄りが「私は○○のようにはなりたくない」とおっしゃる事を耳にしました。同じ年代でいつ自分が動けなくなるか、病気になるかの恐怖もあってそういう言葉が出るのでしょう。無理もないことだと思います。

誰しも一日でも長く健康でいたいし、死ぬときは苦しまずに死にたい、と思いますよね。 うちのばあちゃんはまさにそれでした。見事です。 しかしその一方でどんな姿になっても介護され、生きているお年寄りがいて、私は深い畏敬の気持ちを抱きます。 もちろん24時間介護を続けているご家族の苦労があってこそです。「長生き」に複雑な心境を持ってしまうことも分かります。

けど、それでも生きるという本能的な力を発揮させているその姿には敬意しかありません。

動物は死を悟るとひっそり死ぬようにどこかへ消えたり、捕食にあうことを受け入れたりします。

人間は違います。生きることを望みます。それを強く感じたのが介護の仕事で気づいた点でした。

きれいごとを言っているようですが、私はそう思っています。だから高齢者施設での暴行事件のニュースを聞くと、なんで?と思ってしまいます。
介護者が「人が生きる」という事に敬意を持っていない、それを支えることの意義みたいなものを持っていないという事を残念に思います。

高齢者人口が増えて、介護職も増やさなければいけないでしょう。手当も少しは優遇されてくるかもしれません。でもデイサービスみたいな高齢者の「晴れ」の場所だけではない、施設での介護にかかわる職員さんたちの資質がないがしろにされないことを願います。

お年寄りが好き、人と関わることが好き、ありがとうと言われることが嬉しい…、そこからこの仕事に入ってもいいと思うけど、さらに奥を見つけないと、と思います。

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上の写真の桜はご近所の大木です。
近くの石碑には「明治30年…」と書いてありました。
ばあちゃんが明治3?年生まれで6年前に103歳でしたから、この桜もきっと100年は優に超えているでしょう。
毎年約束のように花をつけてくれるのはやっぱりうれしいですね。自分もこうなりたいものです。

今回は、自分の体の弱さはなんで? お年寄りの長生きの仕方が違うのはなんで? 介護職員で悪いことをする人がいるのはなんで?という話でした。すみません、脈絡もなく書き連ねました。

でも桜の木から答えのヒントがもらえるような気がします。

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